いちかわのほほん古本市、いよいよ今週末です。
ぷちマルシェエリアにキッチンカーやお弁当、雑貨などが11店舗、一箱古本市エリアには12の店主さんが軒を並べます。
よくぞ皆さん、実績の無いイベントにここまで集まっていただけました。
ところで図書館、というか、メディアパークの中に入ると水の広場というところがあります。そこに本を模したようなものが積んである彫刻があるのですが、一部では「積ん読タワー」と呼んでいる人もいるらしいです。
この彫刻を制作した作者の意図は想像するしか無いのですが、芸術の「事象」というコンテクストで鑑賞するとこんな感じにも見えるのかなと思いました。
本というのは知の象徴です。それが高く積まれています。そして置かれているのは閉じた空間。周りが見渡せません。
閉じた狭い世界しか見えないのです。
でも、多分、その彫刻のテッペンまで行き、そこに立つと、閉じた空間から一気に広がり、周りを見渡せるようになります。
つまり、最低でもこのくらいは本を読まないと周りが見えるようにはならないよ、と、作者は意図して制作したんじゃないかなと思ったのです。
「作品が作者の手を離れた以上、それをどう解釈するのかは受け手の勝手だ」という主張もありますが、それではあまりにも「鑑賞」という行為に対して無責任に過ぎる気もします。
彫刻が視覚対象、あるいは感覚対象となることの弱さ、曖昧さを内包し、それによって彫刻は建築の装飾物や日常の玩具となってしまい、芸術作品としての厳密さを持ち得ないのではないか、という問いがありますが、けれど、ロダンという人は彫刻へのこの罵倒に応え、彼は彫刻が厳密な視覚対象となるために必要な革新を持ち込みました。彫刻は視覚が受け取る表現としてでなくては成り立ちようがない。彼はそう考え、面という彫刻の記号単位を決定します。
芸術における表現は対象の本質を感覚可能なものに転換することであり、この転換は芸術記号に依ってでなければ為されないのです。
思考や概念、価値観の不協和が起こると、人は考え、再評価して批判することを求められます。こういう、人にとっての本質的な対立は「認知的不協和」と呼ばれていて、欠陥とも考えられるこの特徴こそが、人が発展してきた必須の長所だという意見もあります。
矛盾する信念や価値観などのジレンマは文化にとってのスパイスであり、それが人の文化を打ち立てて維持してきたのではないでしょうか。
いま、はじめからキレイなストーリーとか、カッコいいプレゼンテーションが付いていることが当たり前になっていますが、そこから入ると大義ばかりが目立って実体が弱くなり、そうすると注目されるためのラッピングが中心になってしまう気がします。